◆SSその2
「貴方に、負けないために」
とある小さな町。旅人が一晩を過ごし、英気を養って再び発つための宿場町の一角で、私は思いもがけない人と再会していた。
「まさかお姉ちゃんに会えるなんて! これが奇遇ってヤツなのかなあ~?」
「……そうね、楓。こうして昔みたいにお喋りすることができて、嬉しい」
目の前の女性――姉の紅葉は、背中まで届く黒髪を風にさららとなびかせながら、儚げに微笑んだ。
「やだなあ、昔って、私たちが出発したのは一年とちょっとくらいだよ。それでもあっという間だったけどね」
私たちは、我が家に伝わる一子相伝の剣術を受け継ぐ者を決めるべく、5年間の修業の旅を祖父から命じられていた。5年の後に家へと戻り、真剣の勝負で生き残った者が、栄えある継承者の権利を得ることとなる。物心つく頃から剣を握り始めてからの私の夢。その最初で最後の壁は、たった一人の姉に打ち勝つことだった。これまでの対戦成績はほぼ五分。しかし、懸ける思いも、背負う期待も、自分の命も、全てを乗せて振るう剣がどんな結果をもたらすのか、ただただ未知数でしかなかった。
「ってことは、あと4年もしない間に『試合』なんだね」
「もう緊張してる? それこそ、初めにお祖父様から聞かされた時は大べそかいてたわね」
「そ、そりゃそうだよ! 世界でいっちばん強くてカッコよくて、私の大切な紅葉お姉ちゃんを……殺さなきゃならないんだって」
私は鼻息荒く、自分より頭一つ背の高い姉の、瑠璃色の眼を見つめていた。しかし、姉に見えないよう腰に据えた剣の柄を握る片方の手が、小刻みに震えてしまうのが分かる。
「でも私は決めたんだ。紅葉お姉ちゃんをがっかりさせないためにも、誰にも負けないくらい強ーい剣士になってやるんだって。それが私の夢。頑張りたい理由なんだ」
「……そう」
「せっかくなんだし、私の武勇伝でも聞いてよお姉ちゃん! ついこの間のことなんだけど、危なく山で道に迷いそうになったら、熊に襲われそうになっちゃってさ……!」
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紅葉お姉ちゃんは、私が一度お喋りの興が乗るとしばらくは収まらないことをよく知っていた。姉は楓の話に時折相槌を打ちつつ、今夜の宿を一部屋取り、二人で食事と入浴を済ませて自室に腰を下ろしたところで、ようやく私も語るテンポが緩やかになってきていた。
「……ってな感じで、もうホントにいろんなことがあったんだ。でもそのおかげで、お姉ちゃんが知ってる頃の私より、ずっとずっと強くなったと思ってる。ま、まだ人は斬ったことないんだけどね……でも、いつかは乗り越えてみせるから! だから……負けないよ。絶対に」
「うん、確かに良い眼をするようになった」
武人の手指とは思えない白磁のような姉の手が、私の頭をそっと撫でつける。
「そういうお姉ちゃんはどうなのさ。きっとお姉ちゃんのことだから、悪い奴とかバッサバッサ退治したりとかしてたんじゃない? 私にも聞かせてよ。紅葉お姉ちゃんの旅のこと」
「そうね……ごめんなさい、貴方の聞きたいような話はできないような話はできないかもしれないけど……」
こんなふうに弱気な顔をするなんて珍しい。姉はいつだって私の前ではカッコいい姿しか見せないよう気を張っている事くらい、私も気付いている。だからこそ、そんなカッコいい紅葉お姉ちゃんは、私の自慢の姉なんだ。
「……紅葉お姉ちゃん?」
「いいわ、ちょっと長くなっちゃうかもしれないけど、話してあげる」
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実はね、私は一年前から、この旅に出ることをためらっていたの。理由は……私が貴方を恐れていたから。貴方に負けてしまうことが怖かった。
確かに、お爺様の下での修行中は、私が貴方に一本取ることもあった。でも、私も、多分お祖父様も、いずれ貴方が私を超える可能性は十分にあると考えていたの。
楓。物心ついた頃から、貴方は私を強く心強い姉として慕ってくれたよね。私はそれに応えたかった。応えられなくなるのが怖かった。
まだ未来は決まっちゃいない。それでも「可能性」は、私の心を蝕み続けた。
いろいろなことを考えたわ。いっそ逃げ出してしまおうか。旅路で野垂れ死んだことにしようか。この旅の果てで、成長した貴方に自分の至らなさを思い知らされるくらいなら、結末を早めてもいいんじゃないか。お祖父様や貴方をがっかりさせて生を終えるくらいなら――そんな昏い感情に追い立てられながら、がむしゃらに歩むことしかできなかった。
そんな時に、私はある人と出会った。彼も剣の腕を磨く旅の途上で、道すがら偶然出会った私たちは、その、感性が近かったというか、食べ物の好みとか、そういう細かい所で気が合って、気付けば一緒に旅をしていた。
彼もまた生真面目な人だった。でも生真面目が故に悩みも多かった。旅を続ければ続けるほど、自分の至らなさがいくつもいくつも見えてくる、普段口数も少なく鍛錬に励む彼は、夜になるとそうやって大きな背中を丸めて語るんだけど、翌朝にはケロッとした顔をして、前を向いて前を歩いてくれる。その後ろ姿が本当に頼もしかったし、正直、憧れていた。
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共に旅をして何か月かした頃だったかな、私は思い切って自分の悩みを彼に打ち明けた。私の生まれと、5年後の決闘のこと。これ以上旅を続けることへの恐怖、期待を裏切ってしまう事への不甲斐なさ……彼は何も言わずに、私の眼だけを見て聞いてくれた。
その次の朝、彼は開口一番に切り出した。君をある所に連れて行きたい、と。連れられた先は、湖の畔の小さな小屋だった。彼曰く、彼が一時的に拠点として使っていた場所だという。さらに彼は言った。『君が良ければ、ここに住んでもらっても構わない。もし君がそれを望むなら、自分が君を守る』って。その時、私がどんな言葉を返したのかは覚えてない。彼に縋り付きながら、眼から零れるものをなんとか留めるのに必死だった。私は独りじゃなかった。私の道は一つじゃなかった。たとえ、今この時捨てようとしている道から後ろ髪を引かれても、彼がいれば、私も自信をもって前を向いていられる。そんな確信が湧いてきたんだ。
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その日の夜のことだった。夜闇の中で、青ざめた顔の彼が私を揺り起こした。その理由はすぐさま察せられた。ざわめく木々の隙間から透けて漏れる松明の明かり。四方八方から毛が逆立たせるような強い殺気。とっさに自分の剣を取ろうとする私の腕を、彼は押し留めた。口を引き結び、戸口に立つ彼。裏口はまだ敵は少ない。早く逃げろ。それだけ言い残し、あの人は雄叫びを上げながら飛び出していった。
何が起きているのか。私は確かに掴んだはずだった。自分には手が届かないと思っていた、辿り着けないと思っていた、もう一つの道への糸口を。私が何かしたの? これは私の罪なの? 私の運命だとでも言うの? 認められない。認めたらそこで、私の大切なモノが、途切れてしまう――思えばあの時は、目の前が霧がかったようになっていた。底知れぬ恐怖に支配された私は、逃げ出すことも、立ち上がることもできないまま、部屋の隅で震えることしかできなかった。
そうして縮こまっていた間も、周囲からは激しい怒号が耳に突き刺さってきた。そしてそれに混ざる微かな剣戟の音。急に視界がすっと晴れたようだった。まだあの人はどこかで戦っている。私のために。なのに私はこんな所で見て見ぬふりをするとでも言うの? 多分、湧き上がったのは罪悪感だったんだと思う。私は、ちょうど家探しにでもしようとしたのか、部屋に入ってきた賊の一人を袈裟斬りにし、あとは目に付いた人間を洗いざらい斬り伏せていった。
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賊たちが捨てた松明の炎があちこちの木や茂みに燃え移り、煌々と辺りを照らしていたおかげで、既に日が昇り始めていたことに気付くまでにしばらく時間がかかった。焼け落ちていく小屋の前で賊を只管に斬り続けたせいか、眼も口も、身体中もが乾いて軋みを上げているようだった。鉛をつるしたかのように重い身体を、地面に突き刺した剣を支えに辛うじて持ちあげて、いくつも転がる族の屍に躓きそうになりながら辺りを彷徨った挙句、最後に見つけたのは、あの人だったモノ。きっと数人の賊と刺し違えようとしたのだろう、屍ともみ合ってそのままの姿だった。私は持っていた剣で無理やり屍を引き剝がし、賊のそれを腕の感覚がなくなるまでめった刺しにした――。
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「そんな風に雑に扱っちゃったせいか、せっかくお祖父様にいただいた剣、ダメにしちゃったんだ。今持ってるこれは、あの人の遺した剣なの」
姉はそう言ってはにかむように口角を緩ませる。私が慕ってきた姉と変わらぬ表情の人間が、そこにいた。
「それから私はね、楓。運命ってあるんだなって思ったんだ。私は、自分に自信がないことを言い訳に、運命から逃げようとした。でも、逃げようとしても絶対に逃れられない定めというのがあって、逃れようとすれば、人はきっと罰を受けるんだ。その罰を受けた時、私は最も大切にしたかった人を身代わりにして、今ここに居る。私は、あの人を踏みつけて戻ってきたこの道を、何があっても進まなければならないの。それが、私にできる、あの人への罪滅ぼし。だから、私はもう逃げない。私の邪魔をする人間は、どんな手を使ってでも倒して乗り越えるわ」
自分に言い聞かせるよう、一言ずつに重みを乗せるよう語る姉。その時の姉の眼、どこか遠くを虚ろに目を凝らす様に、思わず背筋に悪寒が走った。
「あはは、ごめんね、こんな話しちゃって。困るよね」
「ううん、いいの……私、お姉ちゃんのこと、分かってなかった。でも、今はちょっとだけ、分かったような気がする。お姉ちゃんの強さが」
「……そっか。やっぱり貴方は強いや。でも、負けないからね」
「わ、私こそ!」
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それから私たちは、まるで示し合わせたみたいに、修行にかかわる事はお互い一言も話さなかった。その代わり、小さい頃に二人で野山を駆け巡って遊んだことや、旅の道中で見つけた美味しい食事のことについて話したりした。時間は残酷なくらい、あっという間に駆け抜けていった。
翌朝、宿の玄関先で別々の道を歩もうとする私たちは。何も知らない他の旅人からしたら、仲の良い普通の姉妹に見えていたのかもしれない。でも当の私は遠さがる姉の背中に手を振りながら、かつて感じていた姉への憧れと尊敬が巨大な壁へと姿を変え、立ちふさがってきたんだという現実をまざまざと思い知らされていた。
「今のままでは……勝てない。あの人に」
あの人はおそらく、強くなるための、強くありたいと思う理由を見つけた。では自分は? 私は自分の夢のために、姉の期待に応えるために、あの人を斬れるのだろうか?
――いや、あの人の真似を慕ってしょうがない。来る時が来るその日まで、私は、私にできることを一歩ずつするまでだ。だんだんと胸が高鳴っていくのを感じる。
「まずは、生きてる人をためらわずに斬れるようにならないとかな……!」
眼前に伸びる道は、相も変わらず真っ直ぐだった。